昭和四十九年十一月十九日 朝の御理解


御理解第六十二節  「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ」

 昔から人もよければ、世もよけれ、人よりわれがなおよけれというているが、神信心をしても、わが身の上におかげを受けて後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬ。信心が一段一だ進んでゆくという、進んでゆくということが楽しくなる。すすんでいくことが有り難くなる。
 そういう信心を身につけていきたい、とにかく信心させて頂いたら心がひろうならなきゃいけん。心が大きくならなきゃいけん。自分の心の広さかげん、自分の心の大きさかげんというものが、自分の助かっておる度合いでありテンポだということです。
 先日から、○少育成会の研修会がここの教会でございました。北九州の関係の先生の又は幹部の方達が何十名近くでしょうか、ここに集まって三日間ここを宿としていろんな研修が、話し合いやら講話を聞いたり又は実施をしたり、なしておるようでございました。 私は、本当に【 】を痛感したことは、広いということは、すばらしいなあということです。お広前が広い、この教会が広いという、それだけのことがあっておるのに何をしておるのか、ひとつもお広前の方におってはわからない位です。だからお広前の方は、ここへおるならば何があっておるのか、時々あちらからみんなで合唱しておる声が聞こえてくるくらいのことでもう何もさわらない。本当にあの広いということは、有り難いことだと思いました。
 自分の心がひろうなってきたらやはり同じことじゃないでしょうか、自分の心がだんだんひろうなってきたらどういう、例えば、そこに難儀があり、問題がありさまざまなことがあってもです、どこに何があっとるやら分からないくらいに、いわゆる問題が問題でなくなってくる。心が狭いからてんやわんやして【 】ない、がちゃがちゃせんならんのです、ね。
 信心がね。手習いと信心はおんなじこと。一段一段あがっていくというのは、自分のだから心の広さかげんを見たら、一番わかると思うんです。たったこのくらいなことに自分が腹がたちよる。たったこのくらいなことを自分は悔やみ悔やんでおる、ね。これではなるほどおかげもそれこそけしつぶのような心じや、けしつぶのようなおかげしか受けられないということなんです。
 これをだから誰かれに尋ねることはなんもいらん、自分自身が自分自身の心を見てみれば一番分かる。だんだん心がひろうなって、これが本人も信心なかった十年も前のことであったら、もう本当に夜も眠られんくらいに心配であろうけれども、おかげを頂いてひとつもそれが心配にならんところが有り難い心すらわいてくる。それだけ心が大きゅうなったということがいえる。豊かになったということが言えるのです。ですから必ずそれにはそういう大きな豊かなおかげが必ずとものうてくるでしょうね。
 だからもうそれこそ一段一段いうならばひろうなつていくこと、一段一段信心が進んでいくということはね。いよいよ自分の心がひろう豊かになっていくということなんです。だから信心はそこんとの一心をそそがんにゃいかんですね。
 最近若い方達のいろんな恋愛問題なんかのお届けがある。どうでも自分の意思を通す。どうでもあの人といっしょになりたい。親は反対をする。こんな場合どうしたらよいでしょうか、といったようなね。お伺いやらそのために信心を、とにかくまあお参りをしてきなさい。そしてお話を頂いてきなさい、そして例えば、結婚というものは自分の幸せということが大事だけれども、その幸せを周囲の者が全部もうそれこそ全部祝福してくれれる中になかなきゃいけません。親の反対などというようなことはもうこれはやっぱ本当にいけません。とまあいうわけです。
 それでもやはり自分の思いを貫く、そんなら神様に一心におすがりをして周囲の者も合点納得してくれるようなおかげを頂きますという訳です、ね。あるいは日頃信心を頂いておって神様のお働きということの間違いなさというか、まあ久富静夫さんのいわば言葉 をかりるならばですね。親先生は私の心の太陽だと、そういうふうに頂けた時、私が助かっておる。私が助かるということはここでも言っておる、ね。わが身の上におかげを受けてということはいろいろあります。ぴんからきりまであります。
 初めておまいりをして、ね。有り難いと思うたということはもう既におかげを受けたことです。そのうえお願いした事が成就したといえばもうそれもなるほどおかげです。とにかくいっぺく参ってみなさい。有り難いですよと人に伝えられるのです。とにかく私はもう本当にお参りをしてお願いをさせて頂いたら、こんなに奇蹟的なおかげを受けましたということも、わが身におかげを受けたということですというふうに言うてまいりますとです。わが身のうえにおかげを受けるということは、もうぴんからきりまでです、ね。そのまあいうならです、本当に親先生が心の太陽だというふうに頂けるようになつた時、本当のあなたはお道の信心によって合楽の信心によって助かったんです。ということが言えるんです、ね。
 そこには、もう親先生の一言というのは大変な重みをもつものです。もう親先生の一言は、もちろんそのまま神様の言葉として受け取れるのです。自分のよい都合よい時だけが親先生まかせではありません。右がよかろうか左がよかろうかとお伺いをして右だ左だと頂いたらです、それをそのまま有り難く受けられるおかげを受けることなのです。
 右がええばってん左だとおっしゃるから、まあそれでも辛抱して親先生の言われるとおり にしておかげを受けてみて親先生やっぱり言うて頂いとったとおりしたからこんなおかげを頂きましたというようなことぐらいのところからです。もう良いとか悪いとか問題じゃないのです、ね。もうそこにはね、理屈じゃないですね。何しろ今の恋愛問題とか結婚問題とかいったようなことでもです、そりりゃ将来あんまり良くないなと、ね。
 例えば、生まれてどんなに自分の心の中にです。恋こがれるように、例えば思うておってもです、泣く泣くでも私は親先生が右とおっしゃるから右をとらせて頂けるというところにその人の助かりというものがもう約束されてるのです。
 夕べもそんなお届けがありました。親が進める結婚相手はいや、自分はどうでもこの人と一緒になりたい。本当にもう女の一念ちゅうですかね、一人で昨日丁度お祭、私のお説教の時分にここに着かれたそうです。けども自分で自動車で、そしてあの何とか焼き山峠ですか、あそこを越えてね一人でお参りして来ておられます。大変あちらのいなかの方からそしてまた帰りも一人で帰っていかれました。ね。
 だから本当は、はっきりそこに答えを言うてあげるのが一番ええのですけれども、そのそれこそ頭に火がついたようになっとるものですから、そのそういうこと。ただ自分の思いをかなえて頂きたいの一心で参ってきてますからね。だからただ自分の願いをと、とにかく一心をたてて、とにかくどうでもこうでもというて、お願いをするということね。そしておかげを受けるということもおかげですけれどもね。自分が思うとおり願うておることを、それはやめなければいけません。それはいけませんよ、こうしなければいけませんよと言われたときにです。もうそれをそのまま有り難く受けられるという心が助かっておるのですね。これもいうならば最高の助かりということになるのです。
 私が、まあいうならお芝居をするんです。もあお芝居の切符を頂いて【 】をいつ何月何日お芝居が見れるとこう楽しんでおります。で神様にお伺いをさせて頂いたらやめとけとこうおっしゃったらです、私の心の中にはね、喜びが湧いてくるのです。必ず残念、神様どうぞお許しくださいと、そういうものが私の心の中にはさらさらないのです。
 昨日は、それより以上のことが、私の上にある身の上にそれこそ私の身の上にあったんです。けれどね、神様がそれはよしておけとこう、どう言う訳かこういうすばらしいことをよせなきゃいけませんですか、そんなことせずどぜんこぜんおっかけて【 】してくださいというような思いがさらさらない。おこらないだけではなくてです。神様の教えてくださることには、はい、と言える心が自分で自分だけでは拝みたいほど有り難いです。
 なぜかなどということは全然おこってこないです。答えの右、左じゃないです。はあー自分で思うておかげを頂いておるもんじゃなぁと自分で思うですね。自分の都合よい方へね、自分が右と思うとるところへ神様が右と言うて下さる時にゃ有り難いね。反対の方を言われるとどうしたらよかとね。思うようなことでは、わが身の上に本当のおかげを受けておるとは言えません。
 私は、本当にわが身の上におかげを受けるということは、それこそまあ私は、その内容がどういうところまで感じて、そう、ああ発言しておられるかは分かりません。久富さんのね、「親先生は私の心の太陽だ」ということがです、どこまでのものか分かりませんけれどもね。もうとにかく親先生のお言葉通りに、いうなら仰せ通りにつかまつりますという心の状態が助かっておるのだとこう思います。しかも自分は右が良いと思うておっても、左と言われたら、いやそれが、それが有り難いと言う。
 今日は私は、信心も手習いも同じこと一段一段ね。深くなっていくのである進んでいくのだとこう言うておられます。自分の信心のまあ段階というか、まあどういう段階をおうて自分の信心が進んでおるかということを、自分の心の広さかげんというものをです、見抜くことね。自分の心の中にね、例えばどういう難儀なことであってもそれを難儀が難儀と感じないほどしに心が広いね。
 ここで三、四十人会の人が朝から晩まで遅くまでここで会合をやっておるけれどもね。広いおかげでお広前にはひとつもさわらない、どういうことをやつておるのかも分からないくらいね。やはりここが広いからそういうことがでけるのです。自分の心が広うなってまいりましたら、どういう問題があっても自分の心のかたすみで何かがあっておるというそれこそもうちかっとも感じんくらいにです、ね。問題がいうなら問題でない。
 ところが、たったこのくらい一寸くらいの問題が問題になってそれが不安であったり、心配であったり、腹がたったりするならばもういよいよ自分の心の貧しさ、いうならば狭さかげんを悟らしてもろうて、どういうような生き方にならして頂いたら心が広うなるだろうかとね。いよいよ広うなっていくことの精進をしなければ成りません。
 心がいよいよ広うなってまいりますとです、もう右とか左とか問題ではなくなってくるのです。それこそいつの場合でも神様の仰せ通りに仕りますという心が出来てくるのです。もうここにはね。本当に楽な世界、喜びの世界があるのです。
 そういう心の状態になってです。私人にお話がしてやれるようになったら、ほんにね。そして後に人を助けてやれとこうおっしゃる、もう絶対人が助かるでしょうね。。自分の心の貧しい人がね、その貧しくないような話をしても人は助かりません。
 にわかに先生にはなれんぞと、まあいうならばね、にわかに先生ということは私共の心がね、生神を目指して進んでいくということ。いや私たちはやっぱり先生にはならんのだから又は、生神生神といわれるけれども、ね。総生神などといわれるけれども、私は神様にならんでよかちゃ、おかげさえ頂けりゃよいのだからと、いったような浅い信心をふりすててね。どこまでもね、信心させて頂いておれば一段一段高められていく、進んでいく、一年一年有り難うなっていく。一年一年自分の心が広うなっていくことが自分でよう感じられる。そういう私は信心を身に身につけたいという願いをもたなければいけないと。 今日は初めのところのね、昔から人もよければ我もよけれ、人より我がなおよけれというているが、神信心をしても我が身の上におかげを受けて後に人を助けてやけと。というところてなくてそれから先のところをだいたい焦点において聞いて頂いた訳ですね。
 神信心も手習いも同じことと、それから全般のところからです。私共が感じるのは、例えば、初めてお参りをさせて頂いた、初めて天地の御徳を聞かしてもろうた。天地の道理を聞かしてもろうた、初めて聞いた話。本当に知らないこととはいいながら、本当に今までは、天地の道理にそぐわない事ばっかりしてきたことを初めて気がついた。もうそれだけであなたはもう助かったとね。
 だから、一遍お参りしてもお話を頂いて自分の心の中に、はぁーなるほどすばらしいお話だと分かったら、もうあなたは助かったね。だから一遍お参りしてごらんなさい。そりゃあすばらしい有り難いお話が頂だけますよと言えるということです。そしてお願いして帰ったらそのお願いごとが成就しておったなら、またなおさらおかげを頂いたことであり助かったと思うんですから、本当に金光様ちゃあらたかなおかげが頂きますよと、また人にも伝えられる。
 だから人に伝えていくというてもです、もういわば、ぴんからきりまであるということです。けれどもそれは自分も助かりいよいよ人も助かるというほどしのものはです。私は問題が問題にならないほどしにです、自分の心がね。豊かに大きゅう広うなっていくことだと思います。
 けれども自分の我情ね。自分のその我情をどうしても貫きたい。はじめはやはりこれば、おかげ頂きたいばっかりにお参りをする。と言うことにも成るのですからね。だからそれもですやはり信心です。それもやはりおかげです。ところがね、どうでんそういうようなものがなくなってくるというところに、いうならば信心の本当の助かりというのはあるのです。
 どうでもこうでも結婚したい。誰が何というてもそれを第三者から見るとです。とてもあんたがあの人と結婚されるはずは絶対ないですよちゅ。それこそ枯れ木に花を求めるようなもんですよと言われなさった。
 一年間お参りが続いた。もうそれこそ何十里の道を単車で毎日参ってきなさったです。もう誰が何と言うてもね。とてもああ、お、長さといっしょに長さじゃ絶対ないち。ところがね、あんたが一心の信心がでけりゃでけるということ。ま、ただその言葉をたよりにもうそれこそ男泣きに泣き泣きしながら参ってきなさった。
 一番最初にお参りした時に一心を立ててですね。それこそ枯れ木に花の咲くようなおかげも頂かれるという親先生の一言をたよりに、もう一生懸命に参ってきた。何十里の道を毎日、もうその年は大変雪の多い時でしたども、それこそ単車で倒れころびしながら参ってきました。
 一年目にはもうそれこそ枯れ木に花の咲くような事情が変わって、めでたく結婚されました。もう周囲の人達がです、とてもそんなことが成就するはずがないやないかと言うておった人達までがです。もう本当に神様のおかげちゃすばらしいと言うて、まあ、あのま言うくらいでした。
 それから三ケ月間でしたか、二ケ月間ですか、そのお礼のしるしにというて今度はいよいよお礼の信心のためにお参りされるようになりました。ね。お願い参りの時にはね。一年参っても信心がわかっとらん。ただ自分の我情が貫きたいばっかりですから、ところがおかげを頂いてお礼のしるしに後二ケ月間お参りしますということになった時にその二ケ月間の間に信心がかえってきた。その方今、今だに信心が続いています。
 やはりね、信心が分かるということは、そのやっぱお礼の信心がね。喜びの信心がでける。なければ信心も分からないですよね。もうそれからそうですねぇ、もう十四、五年続いてましょうかね。ですから初めの間の我情を、我情というか自分のやっぱ我情ですね。我情をでもです神様が一心あって貫けばです、本当に枯れ木に花の咲くようなおかげを頂いて神様の働きをしることができる。
 けれどもそれではね、信心はだいたいねうちはないんです。ただ自分の我情を満たしてもらうというだけなのですからね。そしておかげを受けてお礼の信心、その方の信心のすばらしいところはあとで二ケ月間お礼にお参りをする。それがすばらしかったと思うんですね、そしてとうとう信心が分かりだしたらもう止められないことになった。もう十四、五年間毎日日参が続いておられますね。
 そしていうなら自分の心が、広うなっていくところのおかげを願って信心をしておられますが、それはそれはおかげの世界がもう本当にこう広がっていく。その方の場合は広がっていっております。
 ですからあの今の思いを改めて、じゃないそれをおかげを頂かなければならないことが、それが我情であってもです。それをやっぱ貫くということも大事です。けれども、そしておかげを受けるということも大事ですけれどもね。そのおかげを頂いたその時点でです。私は本当にその事のお礼の信心がでけて喜びの信心がでけてそこから、信心が身についてくる時に、いわゆる、お道の信心の本当の神髄にふれさせて頂く時に、もう信心を止められることではありません。
 ただ有り難い、有り難い自分の心の広うなっていく、一段一段進んで行くところの楽しみ、その喜びがですね。いよいよ信心というならば生活とが一つになっておかげを頂いていけれる、ね。
 そして、いうならばです、親先生は、私の心の太陽だと思えれるようなところまで信心が進んだら、もう右とか左とかとは、ぜん、ということはもうもう問題ではなくなってくる。そしてです自分の心の中にかすかにみっかよいない。               例えば、はぁ明日は芝居に行けるのにとこう思う楽しんどるとがです。もうがっかりするということになって神様が今日はお芝居はやめとけと言われることに、はいと言えれる心が自分ながら有り難い、その心が自分で拝みたい。なるほど生神を目指すということは、こういうことだということが分かりますですね。どうぞ